懐疑論とその限界

  ここでは懐疑論について述べるが、ここで言う懐疑論とは、絶対確実に正しいことを探求するための、あるいは絶対確実に正しいことについての探求を補助するための方法論である。前者と後者とでは若干の違いが生じるが、基本的には誤謬に陥らないようにするために、対象を徹底して解体していく作業を指すと考えてもらえればよい。したがって、無謬主義の立場をとることになる。
  さて、理想的な懐疑の過程は下記に示すとおりである。


  (1) 提示された立場ならびにそれと相反する立場のほかに採用し得る立場の有無を検証する。
   ⇒ここでは真偽決定不能という立場はとりあえず措いておく。
  (2) 案出された(真偽決定不能という立場を除く)すべての立場に対して、自説以外のすべての説が誤っていることの論証を通した、自説の間接的な正しさの確認のみならず、自説の正しさの直接的な論証を要請する。
   ⇒前者の、自説の間接的論証のみでは不十分である。これは、自説以外のすべての立場が絶対確実に誤っていることが、自説が絶対確実に正しいこと、あるいは自説が絶対確実に誤っていないことを必ずしも保証しないからにほかならない。非Aが反Aのみから構成されているとは限らないことを考慮に入れるならば、2つの立場しか検討しない場合には特に注意を要する。また、実際には、(1)で無視した、真偽決定不能という立場が考えられる場合もあるかもしれないのである。
  (3a) (2)によって消滅せずに残った立場が絶対確実に正しいと判明する。
  (3b) (2)によってすべての立場が消滅した場合には、真偽が原理的に決定不能であることが絶対確実に正しいと判明する。


  私が、まず問いを立てることにしようと考えた主要な動機として、一般人による「独断の多用」と「不用意な自然主義」に対する違和感がある。
  前者は、自らが抱いている、あるいは自らの帰属集団において共有されている感覚や感情(たとえば「〜はつまらない」、「〜は気持ち悪い」といったような信念)を論証抜きに正しいと信じたり、主張したりすること(ただし感覚報告や感情報告を除く)である。言い換えるならば、論理的根拠の代わりに心理的根拠を用いて自説こそが正しいと断じることである。他方、後者については、「私的な感覚や感情から、集団になって犯罪者を攻撃する」という行為には絶対確実に正しいという趣旨の主張などに見受けられる。たとえば、「特定の条件を満たした者を攻撃したくなる、あるいは攻撃すること」が人間であれば回避することのできない物理的/生理的なことであるということが科学によって保証されていたとしても、それが当該行為(ここでは攻撃すること)が正しいことの論理的根拠にはなるまい。言い換えるならば、両者には懸隔がある。それは、科学によって解明されること、あるいは科学が説明することが「仕組み」であるからにほかならない。先の例においては、科学は、せいぜい人がどのようにして「攻撃してもよい」、ならびに/あるいは「攻撃しなければならない」という信念を持つようになるかというところまでしか回答を与えられず、したがってそうした信念を持つことが正しいということを保証しないのである。
  また、人間が引き起こす対立には理論上の身分が同等のものが多いように思われる。たとえば、「芸術はすばらしい」という主張と「芸術はくだらない」という主張の対立においては、両者ともに感覚ならびに/あるいは感情を報告しているに過ぎない。そこでは、互いに自らの側の感覚や感情を直ちに正当化するのに終始しているのである。これと似ている、別の種類の対立もある。たとえば、一神教と科学あるいは左翼と右翼という対立においては、それらの対立に登場するもの以外の立場を取り得る可能性があるにもかかわらず、「相手のこういう点が誤っていることから、相手の考え方は隘路となっているので、自らが正しい」という論じ方がよくなされる。しかし、これらはいずれも誤りである。数学について考えてみればそのことがよく分かるであろう。数学においては、「1+1の答えは2と3のどちらかというところから出発し、2の相手である3を採用した場合にどのような不具合が起こるか」などといったことは検討されないのである。それは、たとえ1+1が3でないことを証明することができたとしても、それだけで1+1が2であることの証拠にはならないからにほかならない。
  こうしたことから懐疑論の重要性が理解される。懐疑論は対立する両者に等しく自らを絶対評価すること〔自らの正しさを直接的に論証すること〕を要求する1ので、懐疑論によって消滅させられずに残った立場が絶対確実に正しいと言えるようになるのである。あるいは、両者ともに消滅するという事態も十分に考えられるが、その場合、「〜という信念または命題が正しいということを正当化することはできない」、「〜という信念または命題が誤っているということを正当化することはできない」という2つの、互いに矛盾しない結論が同時に成立することになる。これは、言い換えるならば、真偽を決定することは原理的に不可能であるということである。(なお、「真偽が決定不能である」とは「真偽はない」ということではないことに注意してもらいたい。)
  また、懐疑論は別の論理的根拠からも要請される。それは、多くの人びとがそれぞれ独断的に前提している基礎的立場〔世界了解〕のいずれが絶対確実に正しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しないためである。このことは次のことから導かれる。Aという立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。しかし、これは(無)矛盾律に反する。したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論証なしには成り立たない2。(これについては、建築とのアナロジーで考えれば分かりやすい。すなわち、基礎工事を行わずして1階部分をつくったり、土台と1階をつくらずして2階部分を空中でつくったりすることは、論理的にはともかくとして物理的にはできないのである。)
  ここで、この部分についてもう少し踏み込んだ議論を示すことにしよう。


  ◆ある事件の加害者とされる者を擁護する言明に対して
   ⇒「おまえが被害者になっても同じことが言えるということだな。さっさと同じ目に遭え。」


  (a) 前半部分について
  彼が同様の状況に陥ったときに同じことが言えないとしても、そのことと彼による加害者擁護言明の真理値に関連性はない。この場合、その状況に陥ったときには彼もまた誤るのだという考え方を採用することができる。
  また、もし両者に関連性があるならば、たとえば下記2点のような事態が起こり得る。
   ○「すべての人間が『1+1=2』であると信じていないことのみから『1+1=2』が誤りであることが帰結する」
   ○「すべての人間が『1+1=2』であると信じていることのみから『1+1=2』が正しいことが帰結する」


  (b) 後半部分について
  自らの、あるいは自らが属する共同体に共有されている感覚や感情、およびそこから帰結する規範を盲目的に正しいと信じ、その押しつけを行っている。この種の者は、そうした感覚や感情に合致するか否かで何ごとかを判断するので、自らの言うことは必ず正しいという主張を含んでいることになる。したがって、たとえばある事態について酷いという感想を持たない場合には、(ある事件の加害者とされる者を擁護する言明に噛み付いた場合とは違い)その事態について酷いという感想を持って不満をぶつける者を否定する。


  ◆ある事件の加害者とされる者に対する量刑に不服がある場合
   ⇒「裁判官は遺族感情を無視している。」


  繰り返しになるが、感覚や感情によってあることが正しくなるならば、その感覚や感情と相容れない感覚や感情に依拠した立場もそれ以外の根拠を持ち出さなくとも正しくなるはずである。しかし、こうした事態は(無)矛盾律に反するために成立しない。
  また、裁判では加害者の弁解(ある行為が悪であることについては肯定するが、その行為の原因が自らにあることを否認する行為)は認められないことが多い。ここでは、たとえば殺した者について否定的な感情を持っていたからであるとか、殺した者から生前に何らかの攻撃をされたからであるとかいったことは考慮されず、ただ殺したという行為のみを切り出した判断の仕方がされている。しかしながらこれは、すべての行為は行為者の匙加減1つである(どこにも原因がなく、行為は唐突に単体で生じる)という奇妙な見解の表明になるため、犯人を攻撃するのはただ攻撃者が身勝手であるがゆえにそうするのであり、遺族が悲しむこともまた犯人の行為が原因なのではなく(ましてやそれとは別の原因がどこかにあるわけでもなく)、ただ彼らがかってに感じただけであるということになる。したがって、遺族感情なるものを考慮に入れないことは正しいということが帰結する。
  ここで反対に、苦痛を感じるのはシステムによって決定されているので行為者の自由にはならないという考え方を持ち出してきた場合はどうなるであろうか。つまり、加害者以外の者が加害者を攻撃するのは決定されている(および、そのように決定されているので加害者を攻撃するのは仕方がない)と考えるのである。この場合には、犯人が法的罪に該当するような行為をしたことは他の何かの因果的な連鎖によって引き起こされた(たとえば以前に被害者に攻撃されたから殺した)のであり、彼が加害者であるがゆえに社会的私刑を受けるということ、そのことによって苦痛を感じるということ、したがって被害者に転じるということすべてがシステムにより決定されていると考えねばならなくなる。
  こうして、「遺族感情を裁判に持ち込まねばならない」といったような言明は成功しないと言うことができるようになるのである。


  しかしながら、これまでに述べてきた議論には5つの欠点がある。以下で、それを洗い出すことにする。


  (1) 懐疑論においては、人間や人間社会は人間の意識や言語から独立して存在することができるという前提、したがって正当性を担保するのは人間社会を包括する何かであるという前提が採用されている。そして、その一般的な形式が世界である。すなわち、世界が他のものやことを根拠づけていると考えるのである。しかし、そうであるとすれば、世界が人間社会を包括しているように、他の何かがその世界を包括しないならば、人間社会を直接的に包括する世界による根拠づけは、心理的根拠と同様の独断と化す。したがって、人間社会を直接的に包括する世界を包括する世界が要請される。しかし、これについても同じことが言えるため、無限後退という隘路に入っていくことになる。要するに、懐疑論において正当性を担保すると想定されているものは、独断か、または無限後退のいずれかの誤謬の所産なのである。


  (2) 懐疑論によれば、まず何よりも基礎的立場の正しさの確定が必要であるということになるが、この考え方には2種類の疑問が生じる。1つは、基礎的立場の確定に必要な議論においては、基礎的立場が確定していない以上、より上位の議論を参照せざるを得ないが、他方で基礎的立場が確定していない段階におけるより上位の議論が空虚になると考えるのであれば、そうした独断的前提を採用した議論を参照して確定される基礎的立場にもまた独断が入り込むことになるというものである。(ただし、矛盾律と否定的背理法/消極的背理法からのみ何かが導き出されるならば、この問題は解消される。)そしてもう1つは、基礎的立場の正しさを確定することが必要であることを論証する際に利用されていた背理法が正しいならば、「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されていることになるというものである。また、仮に同一視するのが正しいとしても、その論理的根拠はどのようなものであろうか。


  (3) 懐疑論が批判する独断は(無)矛盾律が導かれるために誤謬であるとされているが、その結論へと至る過程には標準背理法/肯定的背理法が利用されていた。しかし、標準背理法は、結論が二重否定になる非標準背理法/否定的背理法とは異なり、排中律を内包している。ところが、排中律は(無)矛盾律や非標準背理法のように自明なものでない。また排中律を支持することは、上述の、理想的な懐疑の過程において排中律が成立しない可能性についての言及と矛盾する。


  (4a) 懐疑論は論理学に依拠して進められる。しかし、論理学は、前提や結論、さらにはそれらの文を構成する各要素(主として語彙や文法)については何も述べず、推論と呼ばれる過程/関係性しか扱わない。ところで、前提の正しさや前提を構成する文の各要素の使用法の正しさを論証しようと思うならば別の前提を持ち出さなければならなくなる。こうして必ず完全性がない部分が現れ続けるという無限後退に陥るか、または循環論法3が生起するようになるか、そうでなければどこかで独断的に基礎を決定せざるを得ない。


  (4b) 懐疑論は徹底的に懐疑することを標榜している。そして、徹底的な懐疑は、結局「〜とは何か」という問いに収斂する。むろん他の種類の問いもあるが、1つずつすべてを疑っていくという立場では、その疑問文で扱われているすべての語が分からないという前提のうえで議論が開始されるはずであるから、結局は左の問いの形に落ち着くことになる。しかし実際には、「何」という語、「〜とは何か」という文法、さらにはそもそも「疑う」という語、「分かる」および「分からない」などの、懐疑論の出発点において必要となってくる基礎的な語についても分からないのである。したがって、他の何にも依拠しないという無根拠の状態からでは、思考を開始することができない。すなわち、懐疑することができるには少なくとも「何」を初めとするいくつかの語やそれらの語を使用するためのいくつかの文法を独断的に前提せねばならない。このことから、言語は「独断の共有化」、「共有された独断」によって成立していると言える。
  これは(4a)とも密接に関係しているが、問題は日常言語がどこまで効いてくるかということであると思う。より具体的には、日常言語が独断から逃れられないとするならば、演繹という語が日常言語である以上、演繹それ自体もまた独断により成立しているということなのか、それとも演繹という語とその語によってわれわれが想起している関係性それ自体〔論理的関係性〕は独立に存在することになるのかということである。また、後者の考え方がただ1つの立場からのみ言われるもの(具体的に想定しているのは真理の対応説)であるかどうか、さらにはそもそも具体的にいかなることを言っているのかも分からない。


  (5) この懐疑論の最後の部分では単線的決定論と素朴な非決定論の対立という二分法が持ち出されているが、決定論と非決定論の両方についてそのほかのバージョンの有無が検討されていない。


  以上より、「すべてを疑おうとする者は疑うところまで辿り着けない」という、ヴィトゲンシュタインによる懐疑論論駁が導出される。結局、無前提では、出発することも、終点に行き着くこともないのである。すなわち、言語の制約を受けている以上、言語と切り離して何かが存在したり、成立したりするということはあり得ない。すべては人が人の言語によって規定・設定したり、構築・制作したりしている。それも、しばしば想定される人間社会の内側と外側などというものは単なる幻想に過ぎず、そこにはただ人間社会=人間の言語しかないのであるから、正当化を担保するものは人間社会=人間の言語であるとする構成主義的立場が正しいと言える。
  しかし、本当にそうだろうか。その場合、すべての語について、有象無象の独断的議論に見られるように、感覚や感情による規定を行い、根拠づけが成功すると考えるならば、それは他者(たとえばこの私)がそれとは異なる(しかも相容れない)感覚や感情により規定、根拠づけを行うことによって、両者の理論上の身分は同等になるという、すでに述べた懐疑論からの議論が再登場することになる。あるいは、これもすでに見たように、「すべての人間が『1+1=2』が誤りであると信じていることのみから『1+1=2』が誤りであることが帰結する」などといったように、「正しいこと」と「正しいと信じること」が同一であるということになってしまう。
  それでは、いくつかの語などについては独断を無視するほかないという立場はどうであろうか。この立場の問題点は、なぜそのいくつかの語などについて独断が許容されて、そのほかの語などについて独断が許容され得ないのかというものである。そこにいかなる基準があるのかということについて論証することができない限り、先に挙げた、すべての語について独断を許容する立場と同じ隘路が待ち受けているのである。(しかし、この立場を徹底すると再び懐疑論が論駁されることになる……。)




  注  釈


1 懐疑論は対立する両者に等しく自らの正しさを直接的に論証することを要求する。
  しかし、相対主義の場合には注意が必要である。真性の相対主義者は、相対主義の主張を他者に押しつけないし、その必要性もない〔そのようにしなくとも相対主義は成立する〕と考える。相対主義は、それを主張する者にとってのみの真理なのであり、それ以外の者にとってどうであるかということは問題でないのである。したがって、「生きる意味」について、「個人的には〜というのが生きる意味だが、それをほかの人がどう思うかとか、それが普遍的なものかどうかとかはどうでもいい」という主観的な見解のみを持っている人と同質であると言うことができる。言い換えるならば感覚あるいは感情の報告と同質であり、そこには議論が成立する余地はない。この見方は、相対主義を採用すればコミュニケーションが成立しないとする、おそらく一般的であろう見解と軌を一にしているため、こうした理解の仕方をしてよいと思われる。
  ということは、相対主義こそが正しい考え方である〔相対主義を採用せざるを得ない〕という立場を採用した場合、そのほかの立場とは異なり、自身以外の立場の不可能性を論証することによってのみ自身〔相対主義〕こそが正しいということが判明するということになる。(これに対して、相対主義以外の立場をとる場合には、相対主義の不可能性を論証する必要があるほか、自身の正しさの直接的論証が要請されるということはすでに見たとおりである。)要するに、同じ非明晰主義であるとは言え、超心理学神秘主義心霊主義、東洋思想等々とは異なり、どうやら相対主義の場合には「正当性の探究をしているにもかかわらず、自身が正当化している考えを論証することができない、あるいはそれ以前に論証しようとしないこと」が「不当な正当化を行っていること」にはならないようである。
  なお、ある立場が絶対確実に正しいと言えるためには直接的論証が必要であると述べたが、ここでのある立場には「ある立場を批判するという立場」は含まれない。単にある立場の誤謬を指摘することに終始する場合には、自らが積極的な主張を行っているのではないため、彼の採用している立場はないと考えられる。(より厳密には、判断留保という立場であるが、これは消去法の結果として立ち現れる〔懐疑論を遂行する場合に必然的に採用することになる〕種類のものである。)


2 もっとも基礎となる立場をまず決定せねばならない。
  なお、基礎的な議論が終わった次に待ち受けているのは、その枠組みのなかにあるどの枠組みが正しいかという議論である。たとえば、絶対主義が正しいということになったときには、実在論が正しいのか、観念論が正しいのか、それとも……となる。さらに、実在論が正しいとなれば、素朴実在論が正しいのか、科学的実在論が正しいのか、それとも……となる。さらに、科学的実在論が正しいとなれば、……。そしてようやく最後に、より具体的な個別の問題について、正当化することのできる枠組みに依拠すればどのような解を与えることができるのかと考えることができるようになるのである。


3 循環論法
  たとえば、AからZという、互いに異なる言明があり、AからはBを、BからはCを、CからはDを、……YからはZをそれぞれ演繹的に導き出すことができると仮定した場合、それら隣接する言明同士の繋がりやAとZとの繋がりなどは絶対に正しいと言える。しかし、Aという言明はいかにして正当化されるのであろうか。この問いに対して、ZからAを演繹的に導くことができると仮定したときに循環論法〔論点先取り〕が生じる。(そのような仮定を行わない場合には無限後退に陥り、さらに無限後退を回避しようとすればAの正当性を独断することになる。)それは、ZがYによって、YがXによって、XがWによって、……BがAによって論証されるといったように先ほどとは逆の流れを辿っていけば理解することができる。その結果はAの正当性はZによって保証されるということになるが、最初の仮定ではAがZの正当性を保証していたのであった。また、そうした体系をαとし、それとは別の体系βからAを演繹することができるとしよう。しかし、体系βにおいても、上記で示した、体系αにおける問題と同様のことが生じるため、結局はせいぜい循環論法止まりで、悪くすれば無限後退や独断に陥る結果となる。(この種の循環論法で構成される体系あるいは体系群を支持するのが全体論あるいは外在主義的整合主義と呼ばれる立場であろうか。)